当社は、昭和58年に中国黒龍江省交通庁から道路技術に関する研修生「王元勲」「華大本」の2名を1年間受け入れました。そして、湘南のKinは、中国語が丸っきり分からないのに、研修生の日常生活から研修のすべてをお世話することになりましたが,全く初めての経験で、スケジュール,研修内容など間誤付きっぱなしの毎日でした。
 湘南のKinは、研修生の日常生活のお世話、講義の計画、講師のお願い、現場の視察計画等々が主な仕事なんですが、やはり、講師の関係などで空き時間には湘南のKinもそれなりのお話をしました。この原稿はそのうちの一部です。しかし、他人様に学問のお手伝いをするなんてとてつもない事でしたが、何とか終了し帰国していただきました。そして、中国からの招待で2度ほど中国黒龍江省に伺い、中国東北部の様子を自分の目で見て理解することが出来ました。
 それと私事なんですが、湘南のKinの父親が、満蒙開拓とやらで満州に行き、現地召集で戦死したのが牡丹江ですので、幾許かの思いを込めて旅をさせていただきました。


道「道のこと」 

 人類の祖先が、歩く動物としてこの世に誕生した時から、人の使う「道」の歴史が始まったと考えられる。「けものみち」という言葉があるが、人類の祖先も獣がつくった「けものみち」同様に、自然の野山に食料を求め、水を求めて歩き、人々によって繰り返して踏み荒らされた野山の一部が「道」を形成したのであろう。そして、所々に集落が出来、また、集落と集落を結ぶ「道」が出来ていったと思われる。
 世界の「道」の歴史を見ると、今から6000年以上の昔に栄えた人類最古の大都市といわれるインダス川流域のモヘンジョダロでは、町の中央に幅員9メートルの南北にのびる大路があり、それを挟んで東西に市街が形成されていた。
 市街地には幅員5メートル、4メートル、3メートルのレンガ舗装の道路が走り、その上、上下水道も完備されていたという。
 しかし、記録に残る道路の歴史となると大幅に年が過ぎ、BC2000年頃からBC3000年頃にかけて中部ヨーロッパや東部ヨーロッパの商人が定期的な通商のために使った「琥珀の道」と呼ばれる道が最初である。
 BC300年頃になるとローマ帝国によって建設された「ローマン道路」がある。この道路は、ローマ人をして「世界の道はすべてローマに通ず」と豪語させた立派な軍事用舗装道路であった。ローマン道路は、約500年の間にローマを中心として29本の幹線が放射状に建設され、それを接続する道路もでき、その「道」は総延長では12万キロメートルにも及んだそうである。 当時の交通は、馬、大型牛・馬車が中心で、道路は石塊やレンガや石灰モルタルなどで舗装されていたという。
 その後、中世の暗黒時代に入り、西暦1300年頃まではほとんど道路建設にみるべきものはなかった。しかし、 中世の暗黒時代が過ぎると、社会秩序も安定し、産業も活発になって、馬車交通需要が増大して再び道路建設が活発になった。
 1500年代から1700年代にかけてフランスやイギリスでも2輪馬車や四輪馬車を対象とした重量交通に耐える堅牢な道路が出現した。フランスのトレサゲ、イギリスのテルフォード、マカダムなど、一定の割栗石の上に強靭な砕石によって舗装を作る工法は、馬車に対する耐久性を考慮したものであるが、近代道路舗装技術に通じる礎を築いたといえる。
 ドイツの道路の歴史は、1886年ダイムラーが最初のガソリンエンジンによる自動車を試作し、ベンツやメルセデスの貢献によって自動車が実用化され、本格的な道路の時代にはいる。
 ドイツは、1902年から諸外国に先駆けて世界で初の高速自動車道アウトバーン(AutoBann)の建設に着手し、着手以来第二時大戦までに既に3859キロメートルを完成、大戦後もいち早く再建に乗り出し、戦後のドイツの奇跡的復興を支えたといわれる。
 アメリカの道路の歴史は、1900年以降の急激な自動車交通の発達とともに育った。広大な国土に分散する各都市を「Door to Door」で連絡する自動車の輸送機能は大いに国の発展を促し、アメリカをして自動車王国と呼ばしめ、諸外国に比べて桁違いに大きい道路延長と自動車保有台数を生むに至ったのである。
 アジアでは、やはり中国の道路の歴史が特筆されよう。紀元前3世紀には交通施設の整備が進み、幅員5mの驢馬馳道と呼ばれる道が作られている。また、紀元前50年頃から中国の絹がゴビ砂漠、タクラマカン砂漠を横断してオリエント地方に運ばれていた。これが名高い「シルクロード」であり、「シルクロード」は徒歩からラクダ、馬をへと輸送手段の変遷を経て、車のための「アジアハイウエー」として現代に向けて脈々と生き続けている。 先日も、NHKテレビで道路として健全に機能してる「アジアハイウエー」の姿が放映されていた。
 さて、日本の「道」の歴史について述べると、BC549年纓靖天皇の時代に「山陽道を開く」という記述があり、BC213年158年の孝元天皇の時代に東海道および南海道が開かれたと伝えられる。 当時わが国の中心地は大和地方にあったが、この地方を中心として海路のほかに、山陽、東海、南海の各地方を結ぶ道路があり、これが主要な陸路として利用されていた。
 大化の改新以降、氏族制社会から封建社会への転換により、中央集権的な国家体制が確立され中央と地方の往来および物資の移動が増大して、その結果、全国に道路網が発達した。
 大宝令(701年)には、道路の整備に関する種々の制度、規制が定められており、道路の区分として大路、中路、小路に分けられ、整備の規模、順序も明確にされていた。営繕令には、定期的な修繕、災害の応急措置、費用の支出も規定されていた。これがわが国道路法制度の始まりである。
 道路技術の面では、仏教文化の伝来とともに、道路や橋梁の築造が僧の指導のもとに行われ、道照が架けた「宇治橋」、行基が架けた「山崎橋」などが記録に残っている。 奈良時代、平安時代には、「五畿七道」という行政区画があり、畿内から地方の国府を結ぶ道路が存在している。
 鎌倉時代になると、街道筋に旅人が宿泊したり、荷物を運搬する人夫や馬などを継ぎたてる宿駅が設けられ、地方の交通、経済の中心となった。
 戦国時代から江戸時代に入り慶長9年には、徳川家康は五街道の制度を設け一里塚を設置した。家康の路側の並木整備、特別の植樹保護政策等、道路整備に対する徹底した施策は当時の諸外国にも例を見ないほどのものであったという。
 しかし、この頃までわが国では、交通の手段が徒歩と馬中心であり、その後、明治になり一足飛びに汽車の時代に入ってしまう。道路に対する重量交通の経験を持たない日本の道路は、強度的に重量交通に耐えうる内容のものではなかった。諸外国のように数世紀に及ぶ馬車時代を経て、自動車時代に移行した道路とは構造面、強度面で格段の差があったことは否めない。
 日本は、全国統一の道路に関する制度が設けられたのは明治9年の太政官布達六十号である。ここでは、国道、県道、里道の区分も定められ、明治19年には内務省訓令十三号により、道路築造基準が定められた。
 日本は、明治36年に自動車が出現し、車を用いた交通に対応する道路整備が必要となった。明治44年から大正3年に架けて外国人技術者の指導のもとに京橋〜日本橋、本郷六丁目〜森川町、神田佐柄木町〜錦町で木塊舗装、シートアスファルト舗装、アスファルトコンクリート舗装が試験的に施工された。
 大正8年には道路法が施行され、道路改良計画は翌大正9年にスタートした。大正10年には、小型ながらアスファルトプラントも輸入されるが、関東大震災や戦時経済体制下では計画は遂行されなかった。
 戦後の混乱期を脱してアメリカ軍からの貸与機械、資材支給により、大正から停滞していた道路整備が復活した。進駐軍の軍用に供する道路整備を皮切りにスタートした道路整備は戦後の混乱期を過ぎて本格化し、昭和29年には第一次道路整備五ヵ年計画がスタートし、道路整備は今日まで営々と続き、道路建設技術も長足の進歩をし、日本の道路は飛躍的発展を遂げた。
 しかし、日本の道路は外国の技術に学び、外国の機械を導入して建設された名神・東名高速道路の建設をスタートに本格的な自動車対応の道路建設が始まったと言っても過言ではない。それほどに日本の道路整備、道路技術は緒についたばかりと言う状況にある。