ふ  る  さ  と

 周りを囲む険しい山肌には、赤や黄に色づいた落葉樹の葉が風に揺れ、木々の中から囀る鳥たちの騒々しいさえずりがこの郷に厳しい冬の近いことを告げている。山は真ん中ふるさとの山々ですに川を挟み、厳しく切り立ち、頂上までは急な木立が続き、相当な高さを感させる。山には、唐松、杉、雑木等がいかにもここが山林で生活の糧を得ている郷と言うように整然と区分けされて手入れよく植えられている。
 川に沿って小集落がところどころで続き、その風景が川とともに下流に伸びてゆく。そして点在する小集落はやがてひとつの300戸ほどの村を形成しているのである。川を背骨のように、その両側に集落、畑、山が続く山村の典型のような風景である。
 この中の一軒の家から外を見ると、家の前には幅2mほどの砂利道があり、その道に張り付くように30cmほどの小川が流れている。流れる水は大変澄み切ったきれいな水である。ここでは農家の人々が野菜や食器類を洗っらたり、洗濯などをしている。
 道の先は桑畑が100mほど続くが、よく手入れが行き届いており、この辺が養蚕農家であろうことを伺わせる。今は桑の季節ではなく、畑には農家の人たちもいない。きっと冬に向かい、山での炭焼や薪取りなど冬篭りの準備に忙しいのであろう。
 この畑の先は川である。両岸ともに護岸もなく、水の流れに浸食された姿そのままに柳などが岸にはえている。川の中は大きな石がゴロゴロとあり、水はこの石と石の間をちょろちょろと流れ、所々に淵を作っている。ここの水も本当にきれいで、ここが人郷離れた川上であることを物語っている。
 しかし、この川も、ひとたび嵐でもあれば相当な荒れ川になること必定であろうことは川の形を見るだけで想像がつく。この川を越すと、その先はまた桑畑になる。しかし、この畑はそう長くはなく、せいぜい50m程度で終わる。ここからは急峻な山になり、頂までは相当な高さがある。山には先にも述べたように、唐松、杉、雑木などが整然と植えられており、それぞれよく成長している。
 この山には、川から少し上がったところに急峻な山肌をぬうように横に沿って細い砂利道がくねくねと通っている。ここはこれでも国道であり、今も代燃タンクを背負ったボンネット型の小さなバスがやっと昇ると言う風情で走っている。このバスは飯田と根羽を一日に二往復する唯一の交通機関である。そして、このバスが月に一・二回この村を診療を訪れる医者を運び、日々の郵便物や新聞を運ぶ貴重な存在なのだ。
 今度は家の後に回るとやはり桑畑である。しかし、その端に必ずといっていいほど、少しではあるがこの家で食べるものであろう野菜が植えつけられている。やはり野菜類は高原にむく野菜で、ここが相当標高の高いところであることを物語っている。
 せいぜい60m程度の畑の先はまた山になる。ここには雑木が雑然と植えられており、所々切り倒したあとがあるところを見るとこの家で薪など取っている山らしい。途中の山肌を切って小さな墓地が出来ている。これは構えからして数軒が共同で使ってるらしく見える。
 この村はこの集落から徒歩で一時間ほど下ると村の中心地がある。そこには村役場、郵便局、駐在所、小・中合同の学校と数軒の店と一軒の旅籠と一軒の神社と一軒のお寺とがある。勿論映画館も図書館も何もない。そしてここに行くのは徒歩が大半で、自転車はお金持ちの家にしかない時代である。
 ここの子供たちは毎日ここから学校に徒歩で通っているのである。夏はいいとして、冬には子供の履く長靴を越えて雪が積もり、子供はボロキレで長靴の上を雪が入らないよう結わえて登校する。いつも優しいお兄さんたちが、小さい小学生を庇いながら登校するのである。
 こうした風景から見ると、このあたりは林業と養蚕で生計を立てている雪深い山村のようで、それも構えからして村全体が貧しい生活振りと思われる村である。
 そんなであるから、村には新しい情報がなく、隣近所の噂話が最高の情報である。そんな中で新しい情報と言えば、一日遅れで配達される新聞と何日も掛かって届く郵便物、その配達人、それと富山から来る薬売りの商人や行商人の持ち込む話くらいである。だから、この村から町に出ている人がたまに帰ろうものなら、そこで話す話題すべてが新着情報として村中を駆け巡るのである。その上、その人の衣装定めをし、これがまた尾ひれが付いて情報として飛び交うのである。この情報の伝達速度は想像を絶する速さで飛び交い、村中に行き渡るのだ。
 しかし、そんな貧しい山里にもいいことがあり、それは人情と言うか人と人の絆と言うか、隣近所は実に仲のいい集落でふるさとの清流ですある。
 「きょうはさむいな〜〜」
と隣のおばさんが言えば
 「ちょっと上がらん。お茶呑まんかな。」
と言い、
 「おい、新屋じゃなあ、きんのう裏の畑をなあ、猪に荒らされたんだって。」
 「だいぶやられんかな。」
 「うん、みんな駄目だってゆったよ。お爺が。」
 「そりゃおおごとだなあ。」
とおばさんも上がりこみ、コタツに入り、お新香とお茶でこんな話が延々と続くのである。
 「おい、ちょっとあしたまで米貸しておくんなんしょ。」
と言えば
 「いいに、持ってて。」
と気軽に米の借り貸しが出来る。
 こんなことは日常茶飯事であり、よく言えば、隣の物は何でも使え、うちの物は何でも貸してあげられる。このようにみんなの力合わせて生きている。生活レベルが一致した集落の、不便な山里の生活の知恵とでも言おうか、実に長閑な環境なのである。だが、そんな中で他人様の生活レベルが少しでも異なり、周りより向上すると妬みのもとにもなり、そのためのたまには仲違いもあると聞く。
 この郷は、日本が敗戦のどん底にある昭和20年代後半の、信州といっても南信の端っこの美濃と三河の国境、恵那山の東麓に位置する山深い郷で、養蚕と林業の仕事が生計を支える貧しい村、長野県下伊那郡浪合村と言い、湘南のKinの生まれ故郷で、湘南のKinが育った頃のお話である。しかし、湘南のKinは高校を卒業すると関東に出、今度は、その後、家族みんなで飯田に引っ越し、今は此処のはkinの先祖の墓だけがある。
 しかし、村の名誉のため申し添えると、現在の浪合村は素晴らしく発展し、中京地区の別荘地とか、別荘があり、ゴルフ場があり、スキー場もあって大保養地、大観光地になっているのである。浪合村には下のようなホームページも出来ているのだ。

そして歴史を紐解けばこのような記述もある。

    「浪合村では、後醍醐天皇の御孫に当る尹良親王が、
    南北朝動乱の時代に上野国から三河国に赴く途中で、
    浪合で敵軍の北朝方に襲われ戦死したといい、
    浪合神社の西側には尹良親王を祀った御墓がある。」

    また、

        「戦国時代に伊那谷を攻略した武田信玄が、街道整備と
         ともに南信濃の小領主たちの敵方との内通の動向を監視
          するために設けた関所跡がある。
           今はその関所が復元されていると聞く。」



浪合村も隣の阿智村と合併して、浪合と言う村名が無くなってしまったのだ。