や   ぐ   ら

 平安時代には、武家、僧侶、文人などの有力者は法華堂を自らの墓所として建立する習わしがありました。とこ明月院やぐらですろが平地の極端に少ない鎌倉では、有力者が競って法華堂を建立すれば、狭い住宅地は益々狭められてしまいます。そのため幕府は法令で市中に墓所を造ることを禁止しました。そこで窮余の策として造られたのが「やぐら」だったと推測されています。
 やぐらは、上で述べたように地形に由来した鎌倉独特の古い墓を言うので、鎌倉を取り巻く丘陵のあちこちに、柔らかい岩盤を洞穴のように掘って設けた墓窟です。そもそも「やぐら」とは、巌窟をさす鎌倉地方の方言で、岩倉(いわぐら)が訛ったとも言われております。
  やぐらの形態は、納骨堂と供養堂を兼ねたもので、その基本構造は、墓室へと通じる羨道と墓室からなっており、時代が過ぎるに従い、羨道を省くようになったそうです。墓室の内容は、天井は平天井が多く、広さは16平方メートル程で、二部屋続きの豪華なものもあったそうです。墓室には火葬した骨を埋める穴が掘られ、中央には五輪塔や宝篋院塔を置いたものが多かったそうです。壁際には壇を設けたり、壁面に仏像や梵字などを浮彫りにしたもの、彩色、金箔などを施したものも有ったといいます。
  有名なやぐらは、、明月院やぐら東慶寺やぐら浄智寺やぐら、朱垂木やぐら、百八やぐら、北条首やぐら、お塔の窪やぐら、曼陀羅堂やぐら、釈迦堂口やぐら、北条高時腹きりやぐら、衣張山やぐら、壽福寺やぐら等など数多くあります。
 しかし、やぐらに埋葬された人々は上層階級の武士や僧侶、文人などで、庶民が葬られることはなかったのです。では、一体庶民は何処に葬られたのかと言いますと、これがはっきりしないのだそうです。しかし、わずかに残された史料から「地獄谷」と呼ばれる葬地があったとありますが、これが現在の何処なのかは分かってないのだそうです。鎌倉も13世紀の中頃から洪水、地震が相次ぎ、餓死者が道にあふれたと言いますが、不安と混迷の日々を余儀なくされた庶民には死後の安住の地はなかったのでしょうか。