江ノ島旅館
  岩   本   楼

湘南江の島、旅館岩本楼入口です”歴史は悠久な静寂につつまれて。鎌倉時代を忍ぶ岩本楼の軌跡。
 時は鎌倉時代。岩本坊は、のちに岩本院となり江ノ島三宮の総別当職を務めました。
 以来七百四十有余年の長い歳月の中で、芝居、講談、小説など数々の名作に岩本院の名は取り上げられ,広く世に語り継がれてまいりました。
 明治初年以来「岩本楼」と改名しまして、多くの旅客の憩い・・・・・・”
は旅館岩本楼の案内書の一部です。
 書店、旅行社の旅行案内等にも余り出ませんので、ここでは、江ノ島島内にあります「旅館岩本楼」について少し記してみます。
 ここでいう江ノ島三宮と申しますのは、寿永元年(1182)に源頼朝が文覚上人に命じて、ここに弁才天を勧請して以来世に知られ、弁天信仰とその風景の美しさから参詣の人々で賑わうようになったんだそうです。
 社殿は島のほぼ全域におよび、本社は辺津宮(へつのみや)、中津宮、奥津宮の三宮からなるんだそうです。なお、辺津宮奉安殿には裸体の弁財天、頼朝寄進の八臂弁財天が安置されております。
 お話は元禄の頃のこと。徳川時代も元禄の頃となりますと、太平の御代が続き、歌舞・音曲も盛んとなり、江戸庶民もゆとりができ、江戸から13里と言う手頃な行程で、背に富士のお山をひかえ、波穏やかな相模湾に抱かれた、新鮮な魚のある、また、財宝、技芸、音曲の守り本尊で現世利益の弁財天が祀られている”江ノ島弁財天詣で”の客で大変な賑わいだったそうです。
 江ノ島弁財天詣での客は、主として上、中、下の三宿坊に泊まったんですが、中之坊「岩本院」は幕府奉行中の最高位で将軍直属であった社寺奉行直轄の宿坊としての格式を守るため、後継者のないときなどは地方大名の次男、三男が婿入りをしたと言われる格式のある宿坊だったそうです。
 従って、総別当として江ノ島全島の統治は勿論、宗教権、経済権、処罰権を把握して非常な力があり、宿泊客も他の坊に比べて非常に多かったそうです。また、岩本院は、女人禁制であったため、宿泊客の世話は付近漁村の青少年が雇われて稚児として働いていたそうです。岩本楼名物、弁天洞窟風呂です
 歌舞伎の「白浪五人男」で南郷力丸の台詞に ”岩本院から望まれて、器量のよさに寺小姓、あの時おねし(弁天小僧のこと)が十二の年だった。”  また、弁天小僧の台詞に ”江ノ島の岩本院の稚児上がり、ふだん着なれし振袖から髷も島田に由比ガ浜・・・・” などはここからきたものだそうです。
 このように徳川時代から栄えた日本三弁天のひとつ、裸弁天を祀る江ノ島神社の宿坊から発した旅館が「岩本楼」なんですよ。
 古い歴史と格式のあるここ岩本楼には、名物「弁天洞窟風呂」と言うのがありますが、これにも曰くがあり、稚児仲間で一文づつ掛ける賭博が盛んで、その掛け銭欲しさに弁天詣での講中が投げる賽銭を拾い、昂じて賽銭泥棒をし、挙句は岩本院に泊まった講中の枕探しまでしたと言います。しかし、盗られた方も弁財天への喜捨と考え、あまり騒がなかったので稚児たちは益々増長したそうです。
 しかし、稚児たちも、これが発覚すると、岩本院は処罰として土の牢に入れ、これを幾度となく繰り返す者は最後には弁天小僧のごとく島外追放にしたそうです。「弁天洞窟風呂」はこのときの稚児たちを閉じ込めた土の牢を改造して作ったんものなんだそうです。
 岩本楼は、葉山に御用邸が出来るまでは、宮内庁ご用達だったという格式の高い旅館だったことを付け加えさせて頂きます。