化粧坂切通し
 扇ガ谷から梶原を経て藤沢、武蔵方面に通じた切通しです。葛原ガ岡から扇ガ谷へと下る坂道は化粧坂と言う名で知られておりますが、この地名の由来は、討ち取った平家の武将に化粧をして首実検をしたからであるとか、このあたりに娼家があったからだとか、近辺に遊女がいたからとか、木が良く茂っていたから「木はえ」が転化したとか、諸説がございます。
 ここ化粧坂の切通しからは、鬱蒼と茂る木々を通してすぐ下に人家が見えますが、そこには長い年月をかけて風化した鎌倉石が露出した古色蒼然たる山道があります。しかし、ここは春には山桜、秋には紅葉が大変美しいところなんだそうです。
 化粧坂の切通しは鎌倉七口のひとつで、元弘三年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めで最大の激戦が繰り広げられたことで有名です。
 この切通しは扇ガ谷と佐助の間にあり、藤沢からの出入口ですが、現在もその険しい古道を体験できますが、雨の日は滑りやすいので十分な注意が必要です。

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亀ケ谷坂切通し
 薬王寺を過ぎると道が少しづつ上り坂になり、途中旅館香風園あたりから急に急坂になります。昔はもっと急な坂だったといい、亀が頂上まで上りきらず引き返したということから「亀返り坂」と呼ばれたそうです。また、亀ケ谷の地名は、謡曲「鶴岡」に「緑毛の亀ヶ谷、丹頂の鶴ケ岡」とあり、鶴ケ岡の対語としてこの名が付いたとも言われます。
 この道は、当時は鎌倉から武蔵へと通じる重要な往還路であったのだそうです。
道を上るに従い、道の両側には鬱蒼と木々が茂り、濃い影を落としております。坂を上りきった左手上の崖に横に広がる石の仏を収める厨子があり、六地蔵が彫られております。以前は道がこの高さにあったということなのでしょうか。
 この道は銭洗弁天への近道としも便利なようです。


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大仏坂切通し
 長谷と梶原を結び、藤沢に通じる切通しです。しかし、現在は宅地造成が進み、旧状を留めるところは少なくなってしまいました。


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巨福呂坂切通し
 鎌倉八幡宮裏参道あたりから山ノ内に通じる道です。時の執権北条泰時が仁治元年(1240)自分の所領との利便のために山ノ内道を整備したときに作らせたと言われてます。これによりまして、山ノ内地区が開かれ、建長寺や円覚寺や時宗の屋敷などが建てられたんだそうです。
 ここ巨福呂坂切通しも鎌倉七口のひとつでして、新田義貞の鎌倉攻めのもうひとつの激戦地で苦戦したことで有名なんだそうです。
 巨福呂坂は今は「小袋坂」といい、県道になっておりまして、アーチ型の洞門が出来ており、ここを抜けるとダラダラと下れば鎌倉の街に行くのです。
 なお、旧街道は円応寺の横から山に登り、八幡宮裏に出る道ですが、今は途中に民家があり、通り抜け出来ません。

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朝夷奈坂切通し
 鎌倉時代に切り開かれた七口のひとつです。この切通しは六浦[むつら](現在に横浜市金沢区)の港からの塩など運ぶ行商にどうしても必要なため、当時の執権北条泰時が自ら工事の指揮を取って作った言われております。港からの物資を運ぶのにこれほどまでに力を入れる必要にあった重要な切通しだったのでしょう。
 六浦は、中世、港として栄え、陸揚げされた物資はこの道を通って鎌倉に運ばれたそうです。
 この工事には、強力の強者で知られる和田義盛の息子、朝比奈三郎義秀が一夜で完成させたという伝説があります。路傍に置かれた石仏は、風に耐えながら人々の往来を見守ってきたのでしょう。
 昔は相当な険しい山道であったろうと思えるこの道を越えるとそこは六浦に続いているのです。


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名越坂切通し
 ここは、鎌倉から三浦に通じる古道で、一帯は国の指定史跡になっております。鎌倉七口の中でも、最も昔のままの砦の姿をとどめる貴重な史跡です。
 名越切通しは、往時の姿を色濃く残す軍事拠点と言いましたが、昼なお暗いという表現がぴったりな名越トンネルの上の山道は、しだの群生を見る山道ですが、登りきった頂上に「名越切通し」と書いた標識があります。
 ここは前にも言いましたが、鎌倉から三浦に通じる古道です。真下をJR須賀線が走ってるとは想像も付かない下界から隔絶された山中にあり、北条氏の宿敵三浦一族の侵入を防ぐため、道の真ん中に大きな自然石を置いた「置石」、道の上に兵士たちを待機させた「平場」、亀ヶ岡団地近くには狭い道幅に左右から大きな石が覆い被さり、敵を立ち往生させた「大空洞」、「小空洞」等複雑な防御仕掛けがいたるところに残っております。

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極楽寺坂切通し
 極楽寺を開山した忍性が開いた道と言われます。坂ノ下と極楽寺との間にある切通しで藤沢方面、さらには京都・鎌倉間の往還路でありました。新田義貞の鎌倉攻めの激戦地のひとつで「太平記」の舞台ともなっております。


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釈迦堂切通し
金沢街道の南側に釈迦道ケ谷という谷戸が有ります。住宅街を過ぎるとやがて道幅が狭くなり、山も迫ってきます。道がやや蛇行したかと思うまもなく行き当たるのが釈迦堂切通しです。
 当時の技術でどうしてこの岩を刳り貫いたのかと考え込んでしまう様な大きな洞門が目の前に迫ります。鎌倉初期の三大執権方丈泰時が父義時の供養のため、ここに釈迦堂を建立したことが地名の由来だそうです。
 洞門を抜けるとそこは名越にいたる道となりますが、現在は、崩落の危険があるため、通行が禁止されております。

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