鎌  倉  七  口

 源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた最大の理由は鎌倉が特異な地形であり、一方は海に臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る軍事的要害の役割を果たすからだそうです。いわば、ここは城塞都市、囲郭都市とでも言いましょうか。しかし、逆に言いますと、敵の攻め方によっては孤立を強いられる危険も持っているわけです。そこで、山の軍事的要害性は失わず、人々の往来や物資の運搬のため最小限の道が必要でした。源頼朝は山を最小限度だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったのです。これが「切通し」です。
 しかし、幕府の防衛意識は相当細やかなもので、曲がりくねった狭い道にして、加えて、山腹を垂直に切り落とした「切岸(きりぎし)」や道の上に兵士たちを待機させた「平場(ひらば)」、道の真ん中に大きな自然石を置いた「置石(おきいし)」、亀ヶ岡団地に行く手前では狭い道幅に左右から大きな石が覆い被さり、敵を立ち往生させた「大空洞(だいくうどう)」、「小空洞(しょうくうどう)」等複雑な防御機構などを設けたほどでした。 万が一、敵軍が攻め込んで、この切通しを抜けようとすると、その間に種々な仕掛けなどあり、その障害の為に大幅に戦力をそがれる、こうして外敵の不法侵入を防ぐ役割を果たしたのです。
 鎌倉には、このような切通しが相当数ありますが、その中で主要な七つの切通しのことを「七口(ななくち)」とか「七切通し(ななきりとおし)」と呼び、扇が谷と佐助の間にある、藤沢からの出入口で、現在もその厳しい古道を体験できる「化粧坂切通し(けわいざかのきりとおし)」、亀ケ谷と山之内を結ぶ切通しで、亀も諦めて引き返すほど厳しかったということで名付けられた「亀ヶ谷坂切通し(かめがやさかのきりとおし)」、長谷と打越を結ぶ切通しで、現在も大仏坂トンネルの山上に残る「大仏坂切通し(だいぶつざかきりとおし)」、雪ノ下と山之内を間を結ぶ「巨福呂坂切通し(こぼくろざかのきりとおし)」があります。しかし、ここ巨福呂坂切通しは現在は雪の下側からしか行けず、通り抜けは出来ません。
 金沢、六浦方面から鎌倉に入る切通しで、物資の輸送のほか軍事的要路として重要な役割を果たしたと言う「朝夷奈坂切通し(あさひなざかのきりとおし)」、三浦半島と鎌倉を結ぶ海上貿易のための重要な幹線道路である「名越坂切通し(なごえざかのきりとおし)」、坂ノ下と極楽寺を結ぶというか、藤沢方面、さらには京都と鎌倉を結ぶ西の玄関口の「極楽寺坂切通し(ごくらくじざかきりとおし)」があります。
 このほかに切通しとして有名なのは、外部との要路としてではありませんが、内部の切通として岩壁を刳り貫いて作った「釈迦堂の切通し(しゃかどうのきりとおし)」などがあります。
 上でも申しましたように切通しは鎌倉と外の各地を結ぶ要路でありますと同時に、外敵の鎌倉への不法侵入を防ぐ要害の役割も担っていたのです。 後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕、公家政権復活のための政変(元弘の変)で、新田義貞の鎌倉攻めをいつも悩ませたのがこの切通しの存在であったといいます。
 義貞は化粧坂、巨福呂坂、極楽寺坂の三つの切通しでは軍勢を分けて攻め入ったが、源氏山にある化粧坂切通しでは幕府軍を突破出来なかったし、巨福呂坂切通し、極楽寺坂切通しでの戦闘は困難を極めたといいます。特に極楽寺坂切通しは北条軍の守りが最も固い場所だったと言われております。

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